城址
戦国時代の赤城山周辺
戦国時代の赤城山周辺は、上杉・北条・武田がとりあった関東三国志の舞台だ。それら3つの大勢力に対しては、地元勢力は時には敵となり、時には味方となり戦を繰り広げた。その一方で、地元勢力同士も、時に連合し、時に敵対し、領土拡大のチャンスをうかがった。
特に上杉・北条の取り合いは激しく、地域内の覇権争いも含めて二重・三重の構造となったため、赤城山周辺の戦国時代は、複雑でわかりにくい。
【特集シリーズ・真田氏ゆかりの赤城山麓の城跡】ならびに、【特集シリーズ・赤城山南麓の城跡】を読まれる上で、多少参考になればと、主な出来事や大きな流れを【赤城山周辺の大勢】としてまとめ、また、【主な登場人物】についてのメモをこのページの下部に用意した。
特集・赤城山南麓の城跡
上杉勢と北条勢の争いの最前線
上杉氏は、室町時代から関東管領の職を独占しつづけており、関東全域の武士たちを統括する立場として、大きな権力を持っていた。しかし、戦国時代に入ってからは、相次ぐ内紛や謀反で次第に弱体化していった。
そんななか、新興勢力の北条氏が小田原を拠点に台頭し、関東の覇権をかけて、東京、埼玉、群馬へとその軍を進めていく。
さて、そのころの赤城山の南麓周辺には、大小の武士の勢力があり、長尾氏、沼田氏、長野氏、由良氏、桐生氏、阿久沢氏、大胡氏、膳氏、那波氏といった面々が、それぞれの領地に居城を構えていた。彼らを巻き込んで、守る上杉と攻める北条。代々上杉の影響下にあった南麓の武将たちは、あるものは上杉にのこり、あるものは北条と盟を結ぶ。そして、めまぐるしい情勢の変化に応じ柔軟に立場を変え、したたかに生き残りをはかりながら、虎視眈々と、乱世での台頭を狙っていた。
さて、全国的には織田→豊臣→徳川と権力の中心が移っていく戦国終盤戦。関東では、上杉が越後まで後退し、都に打って出ようとした武田が滅亡。最後に関東全域を勢力下に置いたのは新興勢力の北条だったが、その権勢も長くは続かず、豊臣秀吉の小田原征伐により滅亡してしまう。
このとき多くの群馬・埼玉の武将たちは北条軍として豊臣秀吉と戦ったため、敗戦後はみな没落してしまった。あるものは帰農し、あるものはほかの大名に仕官する身となった。
赤城山南麓の城たちも、その多くが、このとき没落した諸氏とともに、役割を終えて廃城となっていった。
一般的には、「城」といったときにイメージされるのは、姫路城や彦根城のような、江戸時代までに建てられてそのまま現存する天守の姿だろう。
あるいは石垣がきれいに残っていたり、再建構造物のある各地の城址公園も、身近な「城」の姿だろう。このようにいまにその姿を伝える城の多くは、戦国時代を生き延びて江戸時代の終わりまで藩庁として利用され城下の繁栄を見守った。そして、明治に入ってから新政府によって解体された城たちだ。
その一方で、戦国時代の終わりとともに、その役割を終えて打ち捨てられた赤城山周辺の城たち。300年以上のときを経て、土塁や石垣の一部などの遺構を残すのみとなったものも多い。集落から離れた山腹の城跡などは、先にあげた身近な「城」のイメージとはだいぶ違う。
戦のために作られ、戦の終りとともに忘れられた城たちは、戦の名残りを色濃く残し、ひとあじ違った迫力と魅力を持っている。
地図から天然の守りを利用した立地を確認し、運動靴を履いて現地に赴こう。
今に残る大規模な遺構をたよりに、当時の城の姿を想像してほしい。攻め落とす敵兵のつもりになって空堀を越えて目指すは小高い主郭。たどり着いたら、こんどは守る城主のつもりで来た道を見下ろす。いかに攻めにくく、そして守りやすいことか。そして高台から町を見下ろせば驚くほど遠くまで見通せる。彼方から攻め来るのは北条の軍か、武田の軍か。背後にそびえる居城をたよりに戦国時代を疾駆した武将たちと同じ気分を味わおう。
特集・真田氏ゆかりの赤城山麓の城跡
北条・上杉・武田による覇権争いと、真田氏の沼田進軍
関東地方は、北条・上杉・武田による覇権争いの舞台となり、一部では「関東三国志」と呼ばれファンも多い。特に、上野国は関東平野と越後や信濃を結ぶ重要な拠点であり、数多くの戦いが繰り広げられた。
戦国時代の後半には、武田氏は西群馬の長野業正を破って、拠点を確保。 信玄・勝頼の2代に仕えた真田昌幸の軍勢が中心となり、群馬中部、東部への勢力拡大を目指した。
2016年のNHK大河ドラマが「真田丸」に決定したが、主人公の真田信繁(幸村)は、沼田藩の初代藩主である真田信幸(信之)の弟である。そのため、赤城山周辺には沼田城をはじめ真田氏ゆかりの史跡も存在している。前橋市に平成27年1月10日からオープンした、2015年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のメイキング映像や使用した衣装などを展示する「ぐんま花燃ゆ大河ドラマ館」(>前橋まるごとガイドの案内)と合わせて、「NHK大河ドラマ巡り」を楽しんでみてもおもしろい。 続きを読む…
八崎城 特集・真田氏ゆかりの赤城山麓の城跡7
八崎城
築城者についての確かな記録はありませんが、形状が似ていること、緊急の場合避難の城として使われたことなどから、白井長尾氏により、築かれたと考えられています。築城時期についても記録はありませんが、白井城とほぼ同時期と考えられます。
南北600m、東西350mの三角形の区画内に遺構が構築されています。特集・真田氏ゆかりの赤城山麓の城跡シリーズの2~7の城跡の中では、白井城に次ぐ規模を誇ります。
『上野国志』(安永3(1774)年 毛呂権蔵)に「不動山故城、八崎村にあり。利根川を隔ててあり、長尾左衛門尉が持の城なり、永正6(1509)年、長尾伊玄、越後の長尾為景と心を合せ、山内上杉を背により同6月上杉憲房大軍を帥て、白井、沼田両城を攻む、沼田は降り、白井は陥りぬ、伊玄は不動山に保す。白井には大森式部を居く、同7年伊玄白井を攻取りて帰住す。元亀3年長尾憲景、白井を破られて八崎に退く、天正元年白井に帰住す、天正18年、八崎先破れて白井落城す。」とあります。白井長尾氏の旧臣永井実平の書状によれば永正6年景春が退いた城は白井の西方8㎞の柏原ですが、前述したように、景春の白井城在城はないことから、柏原を含めて伝説か、後の事実との混同と考えられます。
元亀3(1572)年武田信玄の白井攻略の先鋒は真田昌幸です。上記のように、このとき長尾憲景は八崎城に退き、翌年、上杉謙信の力を借り、白井城に戻ります。『上野国志』では「八崎」と記述されますが、「不動山」という記録もあり、八崎城と不動山城の混同が見られます。また、八崎城は規模が大きく、補給路も確保しやすいため、長期間、対抗のために籠城するには有利と考えられます。したがって、白井長尾氏は緊急の場合、まず、八崎城に退却し、戦況によっては本シリーズNo.6の不動山城を使用したと考えたいと思います。
永井実平の書状には「八崎城は利根川以東の白井領である
白井城を囲むように、八崎城、箱田城、真壁城、猫城、勝保沢城、三原田城、津久田の砦が築かれていました。これら白井城の支城群は、天正18年の白井城開城の時に廃城となりました。
現地情報(群馬県渋川市北橘町分郷八崎)
県道34号から酒屋さんを目印に南下すると、写真の案内看板が見える。
そのまま細い道を進むと本丸跡に到着する。説明板のとおり、畑として利用されている本丸跡の一部と、北側の堀がわずかに城の名残を残している。
特集・真田氏ゆかりの赤城山麓の城跡 参考文献
『群馬県古城塁址の研究』上巻 山崎 一 著 1971年
『群馬県古城塁址の研究』下巻 山崎 一 著 1978年
『群馬県の中世城館跡』群馬県教育委員会 1988年
『敷島村誌』敷島村 1959年
『武田氏研究第18号』
「戦国大名武田氏の上野支配と真田昌幸」栗原 修1997年
2014年6月23日記
不動山城 特集・真田氏ゆかりの赤城山麓の城跡6
不動山城 (二城 、見立城 )
白井長尾氏に仕えた見立権太郎の築城と伝えられます。(天文(1532~55年)の頃)南北190m、東西280mの規模です。
永正6(1509)年6月、関東管領上杉憲房に追われ、白井城主
天正7年12月、武田氏は城主河田重親を従属させ、沼田地域への攻勢を強めていきました。
津久田城 特集・真田氏ゆかりの赤城山麓の城跡5
津久田城
築城年代ははっきりしません。永禄年間(1558~1570)に津久田地衆によって築かれたともいわれています。土地改良により、遺構はかなり破壊されていますが、南北140m、東西300mの規模です。 続きを読む…
長井坂城/棚下の砦 特集・真田氏ゆかりの赤城山麓の城跡3/4
長井坂城
この城で、あるときは沼田の
永禄年間(1558~)はじめに
白井城 特集・真田氏ゆかりの赤城山麓の城跡2
白井城
利根川と吾妻川の合流地点、吾妻川に面した断崖上に築かれています。総構は東西800m、南北1,000mの規模で、当然ですが、渋川市内で最も巨大な城跡です。(赤城山麓の城ではありませんが、重要な城跡のため紹介します。) 続きを読む…
沼田城(倉内城・霞城) 特集・真田氏ゆかりの赤城山麓の城跡1
沼田城(倉内城・霞城)
真田氏の沼田領支配の拠点。北条家を滅亡に追いやった策略の舞台
戦国時代から江戸時代にかけての平山城。利根川と薄根川の合流点、河岸段丘の台地上に築かれています。北と西の二つの川側は70mほどの崖になっていて、敵からの防御に向いています。
築城については「加沢記」によると、桓武平氏の子孫の沼田
梯郭式の崖端城で東西800m、南北750mの総郭があります。 続きを読む…
五覧田城 特集・赤城山南麓の城跡
上杉・北条が欲しがった、交通の要衝
築城年代は定かではない。
五覧田城は、赤城山の東北を沼田方面から黒川谷(渡良瀬渓谷)に通じる根利道(ねりみち 現在でいえば群馬県道62号沼田大間々線)の要衝。周辺では松嶋氏が砦を築き、拠点としていた。現在の山頂に見られる大掛かりな城跡は、戦国時代の後半に、由良氏(東群馬の大勢力)や阿久沢氏(黒川谷の筆頭勢力)が整備した姿だ。
由良氏、阿久沢氏の領有に加え、越後から侵攻した上杉謙信や、一時は真田勢のものとなることもあった。