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戦国時代の赤城山周辺

特集, 赤城の史跡 2015.03.17(火)

戦国時代の赤城山周辺は、上杉・北条・武田がとりあった関東三国志の舞台だ。それら3つの大勢力に対しては、地元勢力は時には敵となり、時には味方となり戦を繰り広げた。その一方で、地元勢力同士も、時に連合し、時に敵対し、領土拡大のチャンスをうかがった。

特に上杉・北条の取り合いは激しく、地域内の覇権争いも含めて二重・三重の構造となったため、赤城山周辺の戦国時代は、複雑でわかりにくい。 
特集シリーズ・真田氏ゆかりの赤城山麓の城跡】ならびに、【特集シリーズ・赤城山南麓の城跡】を読まれる上で、多少参考になればと、主な出来事や大きな流れを【赤城山周辺の大勢】としてまとめ、また、【主な登場人物】についてのメモをこのページの下部に用意した。

城址特集を読む前に、抑えておきたい赤城山周辺の大勢

(少し違和感がありますが、地名は現在のものをなるべく使用します。)

戦国時代初期

1450年代~ 応仁の乱の少し前。 関東では戦乱の世がスタート。

関東管領の山内上杉のもと、各地の武士がそれぞれの居城に勢力を持っている。
居城は当初は居館や砦と呼ぶべき住居機能が中心のものであったが、戦乱の世の中で、次第に大規模な防御施設の城として整備されていく。

一般的には京都の応仁の乱からが戦国時代だが、その少し前から関東では戦乱の世に突入していた。
関東管領(上杉氏)と鎌倉公方(足利氏)の争い(享徳の乱 1455~)や、上杉家の内紛・謀反が起こり、群馬はその舞台となる。
 白井長尾氏(渋川市)と総社長尾氏(前橋市)は、上杉家の家老をつとめる重臣一族で、大きな権力を持っていた。そんな彼らが、上杉家中の火種となる。1400年代の後半~1500年代前半まで、白井城の長尾景春(下克上のパイオニア)や、越後守護代の長尾為景(上杉謙信の父)らが上杉家に対する謀反で大活躍した。

戦国時代中盤

織田信長の登場以前。群馬は上杉vs後北条。

外部との紛争は優位に進めた上杉家だったが、相次ぐ内乱や謀反によって力を落としていく。
そこに後北条氏が南から台頭してきた。
河越城の戦い(1546)で、完全に勢力を逆転されると、結局さいごには、上杉氏は群馬を追われて(1552)、後北条氏が関東一円に大きな勢力圏を得る。

■西群馬では上杉家の家臣の箕輪長野氏が台頭する。
■東群馬の諸氏は上杉家を見限り、後北条氏寄りの立場をとる勢力が増えていく。【※】

東群馬の地域内の大きな勢力としては、桐生氏&佐野氏ペアと、由良氏(太田市)&足利長尾氏ペアでダブルス戦の様相。絶妙のバランスで、にらみ合いが続く。

【※注釈】地元の各勢力は時代によって同盟・敵対を繰り返し、時々によって上杉方だったり、北条方だったり、武田方だったりする。三大勢力のパワーバランスが大きく変化し、地元勢力がその間を行き来する主なタイミングは次の通りとなる。
 ■北条の関東北上(1555)
 ■上杉謙信の反撃(1560)
 ■武田侵攻・上杉弱体化(1566)
 ■越相同盟(1569)
 ■甲相同盟(1571)
 ■御館の乱(1578) 武田・後北条を巻き込んでの謙信の跡目争い
 ■武田滅亡・本能寺の変(1582)
これらを生き抜いたのが、東群馬の武将たちだ。このほかにも、三大勢力ならびに各家の世代交代のタイミングで、関係が大きく変化したケースがある。

戦国時代後半

織田信長が台頭。群馬は上杉・武田・後北条が三つ巴の乱戦

長尾景虎(=上杉謙信)が越後から山を越えて、群馬の後北条に従う勢力に反撃をはじめる。(1560~1561)
前橋を後北条から奪還することに成功すると、そこを拠点にして、南関東に向けて毎年のように侵攻を行った。
西群馬の勢力はそんな上杉軍に対して歓迎&加勢だが、東群馬勢は後北条に味方する勢力と上杉に味方する勢力が、まちまちだった。後北条側についた勢力にとっては、上杉の軍に領地を荒らされ、時には攻められる立場になった。

■西群馬では、長野氏が武田軍(主に真田昌幸)を相手に激戦を繰り広げたが、最後は破れる。真田氏は沼田まで侵攻して一帯を領有する。
重要拠点の前橋や沼田は激戦や調略の舞台となる。

■東群馬は、めまぐるしく上杉、後北条、武田が取り合った。
地元の勢力は、ときには戦い、ときには恭順し、自らの居城で半独立を保っている。太田市の由良氏は、桐生市の桐生氏や伊勢崎市の那波氏を制し、東群馬の勢力筆頭になる。

戦国時代終盤

天下統一後 後北条氏の滅亡、徳川の世へ

上杉謙信が没し(1578)、後継者争いの「御館の乱(おたてのらん)」が勃発。後北条・武田を巻き込み、群馬の各地で戦乱となった。
織田・徳川・後北条の連合に攻められ、武田が滅亡(1582)する。
武田を滅ぼした織田方の滝川一益が、群馬を拝領して支配するが、すぐに本能寺の変が起こって信長が落命する。それをチャンスと見た後北条は群馬を急襲し滝川軍を撃破し敗走させた。(神流川の戦い) それ以降は、沼田の真田領以外の群馬全域が後北条の支配下となる。

10年にも満たないつかの間の平穏のあと、真田と後北条の名胡桃城をめぐる小競り合いを口実に、豊臣秀吉が後北条を滅ぼしにかかる。この戦いが、小田原征伐(1590)だ。後北条氏は滅亡し、後北条方で戦った群馬の諸氏も没落していった。それとともに群馬の諸城も、多くがその役割を終えた。
沼田城と前橋城だけが藩庁として江戸時代まで残り、城下の繁栄を見守ることとなった。

主な登場人物

【上杉氏】
関東管領のエリート一族で新潟~関東全域を治める。戦国時代に入ると、本家の「山内上杉」と、傍流の「扇谷上杉」で小競り合いをしているうちに北条の台頭をゆるしてしまう。

【長尾氏の一族】
上杉の重臣を務める諸家。内紛や下克上の主役となり、上杉家の没落を招くことに。

【白井長尾氏】
渋川。群馬担当&上杉家の家宰ナンバー1の家系。家宰の職を総社長尾に取られた長尾景春は、上杉に反乱を起こす。長尾景春は30代で反乱デビューし、没する70代までを、だいたい反乱して過ごした。下克上の元祖ともいえる人物。

【総社長尾氏】
前橋。群馬担当&家宰ナンバー2。内紛では山内上杉側で活躍。最後は信玄に追われ、越後へ。

【越後長尾氏】
新潟担当の一族だったが、長尾為景は上杉に謀反して新潟を掌握。

【長尾景虎あらため上杉謙信】
越後長尾の家督を継ぐ。山内上杉が後北条に攻められて没落すると、景虎は後北条から群馬&関東全域を奪い返し、上杉家督を譲られて上杉謙信となる。

【北条氏】
伊勢姓から北条姓に改めた小田原の新興勢力。室町時代の執権・北条の遠い親戚ではあるが、区別して後北条と呼ばれる。勢力を拡大し、関東を制覇。群馬の諸氏を従えるが、最後は豊臣秀吉に小田原城を攻められて没落。このとき北条方として参戦した群馬の武士たちは、軒並み没落することに。
北条氏については、歴代の氏政、氏直といった名前が、北条氏、上杉氏、の○○氏のようで字面的にややこしく、さらに群馬では謙信配下の武将「北条(きたじょう)」氏が前橋城主で活躍するので、またややこしい。

【武田信玄】
山梨県から長野県を攻めあがり、上杉と対峙。息子の武田勝頼の代には東群馬にまで領地を拡大するが、織田に敗れ滅亡。

【横瀬氏あらため由良氏】
太田市の新田金山城・岩松家の執事。由良成繁は下克上し、東群馬の諸氏を従える大勢力へと成長した。上杉・後北条・武田の激しい争いのなか、時に従い、時に戦い、半独立状態で勢力を維持する。
上杉・武田とも付き合うが、本命は北条。北条と上杉の同盟では北条方の使者として活躍した。北条氏の滅亡後も、茨城県の牛久に領地を得て生き残った。

【長野氏の一族】
西群馬を拠点とした上杉家臣の一族。箕輪長野氏と、厩橋長野氏。長野業正は北条・武田の侵攻を受けて立つ。その戦いには新陰流開祖の上泉信綱も合流する。最後は武田に敗れる。

【東上野の武士の面々】
岩松、大胡、上泉、膳、桐生、那波、沼田、阿久沢、山上ら赤城山周辺に居城を構えた武士たち。上杉・北条・武田の三大勢力の争いと、東群馬の由良氏・西群馬の長野氏の台頭の中で、活躍したり、裏切ったり、没落したり。
 城を失って客分・仕官の身となっていった武将の中には、新陰流の開祖で後に剣聖とあがめられた上泉信綱や、 悲劇のヒーロー沼田平八郎景義、前田利家とともに戦った山上道及、新井白石の先祖など、エピソードの残る人物もいる。

【真田昌幸】
武田家家臣で真田幸村の父。後北条から群馬を奪取し、沼田を拠点とする。知略と武勇で大勢力とわたりあった乱世の名脇役。

【真田幸村】
本名は真田信繁。残念なことにこの有名人は、初陣が小田原攻めのときに石田三成が指揮した忍城攻略戦なので、このシリーズで扱った群馬の大乱戦には登場しない。由良家の血筋にあたる忍城の甲斐姫とのエピソードが残る。

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