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八崎城 特集・真田氏ゆかりの赤城山麓の城跡7

特集, 赤城の史跡 2015.02.18(水)

八崎城(はつさきじよう)

八崎城1築城者についての確かな記録はありませんが、形状が似ていること、緊急の場合避難の城として使われたことなどから、白井長尾氏により、築かれたと考えられています。築城時期についても記録はありませんが、白井城とほぼ同時期と考えられます。

 南北600m、東西350mの三角形の区画内に遺構が構築されています。特集・真田氏ゆかりの赤城山麓の城跡シリーズの2~7の城跡の中では、白井城に次ぐ規模を誇ります。
 『上野国志』(安永3(1774)年 毛呂権蔵)に「不動山故城、八崎村にあり。利根川を隔ててあり、長尾左衛門尉が持の城なり、永正6(1509)年、長尾伊玄、越後の長尾為景と心を合せ、山内上杉を背により同6月上杉憲房大軍を帥て、白井、沼田両城を攻む、沼田は降り、白井は陥りぬ、伊玄は不動山に保す。白井には大森式部を居く、同7年伊玄白井を攻取りて帰住す。元亀3年長尾憲景、白井を破られて八崎に退く、天正元年白井に帰住す、天正18年、八崎先破れて白井落城す。」とあります。白井長尾氏の旧臣永井実平の書状によれば永正6年景春が退いた城は白井の西方8㎞の柏原ですが、前述したように、景春の白井城在城はないことから、柏原を含めて伝説か、後の事実との混同と考えられます。

 元亀3(1572)年武田信玄の白井攻略の先鋒は真田昌幸です。上記のように、このとき長尾憲景は八崎城に退き、翌年、上杉謙信の力を借り、白井城に戻ります。『上野国志』では「八崎」と記述されますが、「不動山」という記録もあり、八崎城と不動山城の混同が見られます。また、八崎城は規模が大きく、補給路も確保しやすいため、長期間、対抗のために籠城するには有利と考えられます。したがって、白井長尾氏は緊急の場合、まず、八崎城に退却し、戦況によっては本シリーズNo.6の不動山城を使用したと考えたいと思います。

 永井実平の書状には「八崎城は利根川以東の白井領である東廻(ひがしめぐ)り十騎を総轄していた城であって、三原田の永井出羽実利が城代をつとめ、米野の蛭川新左衛門や永井大学、萩原越後、吉田甚之丞、永岡刑部左衛門、塩谷勘解由左衛門、小保方左京、小保方兵庫、中島藤右衛門および足軽50人がここにつめていた。」と記されているので、白井長尾氏に従属する利根川東岸の武士の中心的な城と考えられます。
八崎城2
 白井城を囲むように、八崎城、箱田城、真壁城、猫城、勝保沢城、三原田城、津久田の砦が築かれていました。これら白井城の支城群は、天正18年の白井城開城の時に廃城となりました。

現地情報(群馬県渋川市北橘町分郷八崎)

八崎城3県道34号から酒屋さんを目印に南下すると、写真の案内看板が見える。
そのまま細い道を進むと本丸跡に到着する。説明板のとおり、畑として利用されている本丸跡の一部と、北側の堀がわずかに城の名残を残している。

城マップ

特集・真田氏ゆかりの赤城山麓の城跡 参考文献
『群馬県古城塁址の研究』上巻 山崎 一 著 1971年
『群馬県古城塁址の研究』下巻 山崎 一 著 1978年
『群馬県の中世城館跡』群馬県教育委員会 1988年
『敷島村誌』敷島村 1959年
『武田氏研究第18号』
「戦国大名武田氏の上野支配と真田昌幸」栗原 修1997年

2014年6月23日記

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