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長井坂城/棚下の砦 特集・真田氏ゆかりの赤城山麓の城跡3/4

特集, 赤城の史跡 2015.02.18(水)

長井坂城(ながいさかじよう)

長井坂城1この城で、あるときは沼田の境目城(さかいめじよう)、あるときは白井の境目城となり、数度の激戦が展開されました。
 永禄年間(1558~)はじめに長尾(ながお)景虎(かげとら)(後の上杉謙信)により、築城されたといわれます。また、小田原北条(ほうじよう)方だった白井長尾氏が支配していた時期があり、北条流の築城技術が見られるといいます。

 南北80m、東西40mの本郭が築かれ、二郭が北・東・南の三方を囲み、三郭が二郭を囲みます。南北300m、東西180mの規模で、西は約100mの断崖です。

 天文20(1551)年、関東管領(かんとうかんれい)上杉(うえすぎ)憲政(のりまさ)が北条氏に追われ、平井城(藤岡市)を放棄すると、沼田顕泰は北条氏に味方をし、沼田まで逃れてきた憲政を冷遇しました。その後、憲政は景虎を頼り、越後へ落ちのびました。永禄3(1560)年3月、春日山城を立った景虎は三国峠、猿ヶ京を経て沼田城に迫りましたが、攻撃することなく迂回して長井坂城に入り、沼田、小田原が連絡をとることを妨害したので、顕泰は長井坂城に行き、景虎に降伏しました。
長井坂城2

 『加沢記(かざわき)』によると、天正8(1580)年8月、真田昌幸が厩橋(まやばし)(前橋)攻略に出発したとき、
「長井坂の城にあった牧弥六郎、須田加賀守・・・は城を明けて白井に退いた」
とあるので、この頃は長井坂城は白井長尾氏の支配下にあり、宮田、津久田周辺の地衆がこの境目城を守っていたことがわかります。また、
「天正9(1581)年6月、昌幸はここに恩田越前守、下沼田豊前守を置き、翌10年10月上旬、北条(ほうじよう)氏邦(うじくに)(寄居町鉢形城主)が攻め寄せ、5千騎で包囲したが、越前守らは千喜良与兵衛の激励により奮戦、夜暗に乗じ、囲みを衝いて脱出した。氏邦はこの城を拠点として、沼田城攻略をはかったが、成功せず、猪俣(いのまた)範直(のりなお)(のちの邦憲(くにのり))を残して退陣した。」
とあります。天正17(1589)年、北条氏は豊臣秀吉の仲介によって沼田城を手に入れ、猪俣邦憲が城主となりました。

長井坂城本丸跡

現地情報

群馬県渋川市赤城町棚下、利根郡昭和村永井(現地案内板によると「永井」だが、大字は「川額」?):関越道長井坂トンネルの上

 北側と南側の2経路があるが、北の昭和村永井側からの方がわかりやすい。県道255号線から「長井坂城」の標示に従い登り切った坂の上に城跡はある。ちなみに、長井坂トンネルは長井坂城を保存するために作られたらしい。土塁や堀は保存されているが、二の丸と三の丸は畑として利用されているため、見学する場合は注意が必要。城跡内を旧沼田街道が貫通しており、居城としての城ではなく街道を押さえる城であったと推測される。
長井坂城3

棚下(たなした)(とりで)

関越自動車道の下に隠れた城跡

棚下の砦 「奈良原文書」によると、築城年代は永禄年間(1558~1570)で、上杉輝虎(謙信)によって築かれたといわれます。長井坂城と津久田城との間にあり、交通の要衝をおさえるための、長井坂城の砦であったようです。
 利根川右岸の台地の西端に築かれ、棚下不動の上に位置します。東西160m、南北65mの間に収まる小規模ながら、本郭、二の郭、三日月堀などの遺構が良く残っています。

現地情報

群馬県渋川市赤城町棚下

 現地へは道案内もなく、細い林道を進んでいく。関越自動車道の下、鉄塔の脇に車を止め直進、舗装道は右へ曲がるがそのまま真っ直ぐケモノ道を進むと、本丸、二の丸、三日月堀が姿を現す。ケモノ道を進むので、身動きの取りやすい格好で訪れることをオススメする。

城マップ
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