HOME > 赤城の神秘 > 赤城の史跡 > 白井城  特集・真田氏ゆかりの赤城山麓の城跡2
特集

白井城  特集・真田氏ゆかりの赤城山麓の城跡2

特集, 赤城の史跡 2015.02.18(水)

白井城(しろいじよう)

吾妻川を利用した自然の要害

  利根川と吾妻川の合流地点、吾妻川に面した断崖上に築かれています。総構は東西800m、南北1,000mの規模で、当然ですが、渋川市内で最も巨大な城跡です。(赤城山麓の城ではありませんが、重要な城跡のため紹介します。)

 築城年代、築城者とも記録にありません。以前から、享徳の乱(1455~1483年)の渦中にあった長尾(ながお)景仲(かげなか)が、長尾氏本拠の白井に城郭の必要性を感じ、築城したと考えられてきました。ところが、近年の研究で、白井長尾氏3代目とされる景春(かげはる)(景仲の孫)まで在城した証拠が無く、当時の白井城は越後上杉氏(上杉房定)が在城していたことが分かっています。ただし、景春が築城したとされる鉢形城(はちがたじよう)(埼玉県寄居町)と共通性があること、景春の子、景英(かげひで)以後は山内上杉氏に従属したこと、鉢形城も山内上杉氏の拠点となって改修された可能性が高いこと、など、築城については総合的に再検討する必要があります。(鉢形城と同じように、白井城、八崎城の学術的な発掘調査も必要です。)
白井城3
 文明18(1486)年、堯恵(ぎようえ)(僧・歌人)が白井戸部亭に泊まり(「北国紀行」)、長享2(1488)年、禅僧万里集九が白井城中を訪れています(「梅花無尽蔵」)。

 白井城は景春の子、景英(かげひで)が治めました。その子景誠(かげしげ)が家督を継ぎますが、大永7(1527)年、家臣により害されたため、総社長尾氏の憲景(のりかげ)が養子に入り、白井城主となりました。永禄3(1560)年9月、憲影は長尾景虎の関東出陣に参陣しました。

 永禄8(1565)年、武田信玄の願文に箕輪城(みのわじよう)をはじめ白井城が西上野攻略の目標として掲げられました。永禄10(1567)年3月、真田幸綱(ゆきつな)幸隆(ゆきたか)、昌幸の父)・信綱(のぶつな)(昌幸の兄)父子が白井城を攻略しました。この後、天正7(1579)年11月まで武田氏は白井領を支配し、真田昌幸が天正3(1575)年11月頃から天正7年11月まで白井城代として在城しました。長尾憲景はこの間、八崎城に逃れており、天正6年御館(おたて)の乱後、武田勝頼に所属しました。

 天正10(1582)年、武田氏が滅亡すると憲景は厩橋城の北条(きたじよう)高広とともに北条(ほうじよう)氏に属しました。天正11年4月、憲景が病死すると、小田原に人質として預けられていた政景が帰されて城主となりました。天正18年、北条氏の没落と共に白井城も開城しました。
白井城本丸跡

現地情報(群馬県渋川市白井)

白井城2 白井宿の城山不動尊の南300mほどに位置しており、道順の案内看板も設置されているので、迷わず到着できた。二の丸・三の丸・北郭は畑となっているが、本丸部分の堀や土塁は保存されている。

本丸部分に車を止めることができ、じっくり散策することができる。西側は吾妻川、それ以外は高い土塁で囲まれているが、東側はさらに「三日月堀」で囲われ、かなり高低差がある。

城マップ
  • このエントリーをはてなブックマークに追加  

赤城山ライブカメラの映像

赤城大沼

群馬県の天気

赤城山スポット天気

日本気象協会
日本気象株式会社

交通情報は、このサイトの最下欄をご覧ください

赤城山 on Twitter「赤城山なう」

赤城山での思い出をTwitterでつぶやいてみませんか?
赤城山をツイッターでつぶやく

ブログ検索 赤城山