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山上城  特集・赤城山南麓の城跡

特集, 赤城の史跡 2015.02.18(水)

「花の慶次」に登場する山上道及の居城
山上城跡大胡氏と同じく藤姓足利氏の一族の山上氏。平安末期に足利五郎高綱が当地に居城を築き、山上氏と称したという歴史深さだ。
膳城のほどちかく、徒歩10分程度の位置にあり、山上氏が追われてからは城主城代は膳城と兼任のような状況が続くため、戦国時代中ごろ以降は膳城とほとんど変わらない歴史を持つ。最後は北条の滅亡とともに廃城となった。

諸国の大名に重用された放浪の豪傑 山上道及

 弘治元年 (1555)、山上道及は北条氏康に山上城を奪われ、流れて佐野氏の家臣になる。 山上道及は佐野家で、北条方との戦いや長尾・由良らとの戦いに活躍。槍の名手として勇名を轟かせた。免鳥の合戦(1581)では長尾の将を一騎打ちで圧倒し「鬼神とて近づくものなし」と恐れられたが、その後の戦略で家老衆と揉めたことから、佐野家を出て武者修行の旅に出る。

関西地方をめぐり、後北条や武田にも一時仕えた。
 おなじく佐野を離れていた佐野城主の弟の天徳寺宝衍を通じて、秀吉に仕えた折には、小田原征伐をまえに関東の諸城や難所を記した地図を作成し、豊臣勢の関東諸城の攻略の案内をした。小田原の攻城戦では、佐野家の人質が城内で殺害されたことに憤慨し、天徳寺のもと先陣にたって奮戦した。(唐沢老談記)

 山上道及はその後、上杉家に仕えることに。
 慶長3年(1598)年に会津に移封となった上杉家。当時は関東・東北の監視役として家康との対立を深めていくなか、浪人たちの登用を進めていた。山上道及を登用したときの上杉家の記録には、関東牢人の山上道及、たびたび首供養(敵33人を討ち取ると供養を行った戦国の習慣。関原軍記大成には首供養3度とある)をした、と注釈されており、名だたる豪傑だったことが伺える。 同じ時期に、前田慶次郎や、上泉城を追われた剣聖・上泉信綱の孫にあたる上泉泰綱も上杉家に仕官している。

 山上道及の実像を伝える歴史的資料というものはほとんど無いが、軍記ものでの活躍には事欠かない。隆慶一郎の小説「一夢庵風流記」とそれを原作とした原哲夫の漫画「花の慶次」では山上道及が前田慶次郎の戦友として登場し、上杉が最上・伊達に攻め入った慶長出羽合戦(1600年/関が原の戦いの東日本版)の激戦のエピソードなどが描かれている。ちなみに上泉泰綱もこの戦いに参加し、長谷堂城の攻防では乱戦のなか、最上勢に討ち取られている。

城マップ

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