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深沢城  特集・赤城山南麓の城跡

特集, 赤城の史跡 2015.02.18(水)

深沢城3阿久沢氏が支配した、赤城山東麓を沼田へ抜ける根利道(ねりみち)の入り口
築城年代は定かではないが永禄年間(1558年~1570年)頃に阿久沢氏によって築かれたとされる。根利道は沼田~桐生をショートカットで結ぶ山道だ。
上杉謙信にとっては新潟から関東へ進撃する場合、前橋が敵の手に落ちる可能性を想定すると、この道の重要性は計り知れない。

天正2年(1574)、上杉謙信が越山(毎年恒例の謙信の関東出陣を越山と言う)し、膳城、山上城、女淵城を落とし、北条方の太田金山城・由良氏を攻めに向かう際に、深沢城に詰め寄った。この一帯を治める阿久沢氏は服属を申し入れてきたが、これを信用せず、上杉の手の者を深沢城に押さえとして置いたとされている。阿久沢氏は険しい根利道を熟知した黒川衆のまとめ役だった。謙信にしてみれば支配駐留も難しい土地であり、彼らを敵に回せば根利道の利用が困難になるため、気軽に攻め滅ぼすわけにも行かない。

阿久沢氏、大名への道

この前年にあたる元亀4年(1573 /天正へは4月に改元)の3月こと。阿久沢氏や松島氏ら黒川谷(渡良瀬川上流)を拠点とする武士たち(黒川衆/神梅衆)は桐生氏に従っていたが、その桐生氏が由良氏に滅ぼされた。
しかし阿久沢氏らは、素直に由良の傘下に納まったわけではない。もともと桐生氏からも半独立状態だった黒川衆の武将たちは、独自に北条や上杉とも通じ、したたかに戦国を生き抜いていた。謙信の軍が去って数年後のこと、黒川衆は由良氏と直接衝突し、深沢城一帯での合戦もあったほど。しかし天正7年(1579年)には和解してその配下となり、北条→由良→黒川衆の関係となった。

天正12年(1584年)、由良氏が北条と敵対した折には(※詳細は次項に)、阿久沢氏は北条氏側の武将として由良氏の五覧田城を攻略し、その功で北条氏から所領を安堵された。これにより、北条氏から見れば、戦国大名である由良氏と同格ということになる。
 「戦国大名」の定義はいささかあいまいで、より小規模な「国衆」との境目もはっきりしないところがあるが、現代でたとえれば、企業複合体の後北条グループがあり、由良氏は東群馬統括で太田支社長。その部下の阿久沢・黒川谷エリアマネージャーが、手柄を立てて、あらたに設立された黒川谷支社の社長になった。というような状況。

その後の阿久沢氏は、後北条氏が真田氏の沼田領を攻める争いに、毎回加わっている。沼田に向かう後北条勢の大軍、赤城山を越える道を先導したのは、阿久沢氏ら黒川衆だったことだろう。しかし、真田の老臣・矢沢頼綱の守る沼田城が、たびたび押し寄せた後北条の軍勢に屈することは、ついになかった。
そして天正18年、小田原の役で北条氏が滅びると、北条氏方として小田原に参戦していた阿久沢氏も没落し、深沢城も廃城となった。
深沢城2

戦国末期、北条氏と由良氏の対立

これまで良好な関係だった由良氏と後北条氏は、天正11年ころから対立する。軍記物の記述は実にさまざまだが、史実としてはおおむね次の流れであった模様。

天正10年は本能寺の変の後、滝川一益・群馬勢力と後北条氏・埼玉勢力がぶつかり合った。その結果、滝川一益は群馬を追われ、群馬の諸将は一旦はすべて後北条方に従うことになるが、沼田の真田氏や厩橋の北条(きたじょう)氏は、上杉景勝を後ろ盾にして北条と対立した。

天正11年(1583)、後北条氏は主力部隊を動員して、上杉方についた北条(きたじょう)氏の厩橋城を攻め取り、これを直轄にした。次第に群馬の支配を強める後北条氏は、味方勢力である由良氏と長尾氏に、金山城と館林城の借用を迫る。これまで半独立を保ってきた由良・長尾の兄弟はこの支配に反発。彼らと長年対立してきた佐野氏、そして佐竹氏・宇都宮氏の陣営と、後北条への対抗で一致団結し、後北条方の小泉城(富岡氏)を攻めた。

一方で、阿久沢氏は由良氏の動きに反発し、後北条方として行動する。由良氏とは五覧田城・深沢城でぶつかり合った。
天正12年に後北条氏の反撃の軍が金山城・館林城に押し寄せ、これにはたまらず降伏。両城は北条氏の直轄となった。由良・長尾の兄弟は、この間小田原に幽閉されていた。
この一件のあと、由良氏は桐生城に、長尾氏は足利城に退き、再び後北条氏に従うことに。阿久沢氏は後北条氏の後ろ盾で周辺の領地を安堵され、由良氏から独立した。

深沢城本丸跡

妙印尼 群馬の女性は、やはり昔から強かった

 天正12年の争いについて、新田老談記には、由良家当主の国繁と長尾顕長の兄弟の母である妙印尼(71歳)の武勇談がある。当主の国繁が幽閉されて、留守になった金山城。そこに攻め来る北条氏邦の軍勢。妙印尼は家中をまとめてこれに応戦し、ついには撃退したとのこと。史実としては金山城はこのとき開城したようなので、「当主不在のなか、篭城においては精神的支柱となり、また家中をとりまとめて講和を実現させた」というようなことになろうか。
 妙印尼についてはさらに武勇伝に続きがある。由良国繁と長尾顕長が、小田原攻めで後北条方で参戦する一方で、妙印尼は攻めてくる豊臣方の前田利家に加勢したというお話。詳しくは[前田利家 妙印尼 書状]で検索。

 群馬の強い女性といえば、妙印尼の孫娘であり忍城の成田家に生まれた甲斐姫も、美貌の女傑として名高い。小田原征伐の時は忍城を守って奮戦し、真田信繁(幸村)とも対峙している。映画「のぼうの城」ではヒロインとして大活躍だ。詳細は[甲斐姫]で検索。北条方で取り潰しになっても仕方の無い立場の由良家は、二人の活躍あってか、牛久に移封となり江戸時代も存続した。

現地情報(

深沢城1正圓寺(桐生市黒保根町宿廻564)の南

正圓寺(深沢城を築城したとされる阿久沢氏代々の墓がある)というお寺を目指し、細い道をくねくね。お寺のものと思われる駐車場に車を止め、歩いてすぐの案内看板へ。看板によると、神梅城や阿久沢城と呼ばれることもあるようだ。

本丸の周囲は幅の広い堀によって囲まれている。この堀は南に向かって深くなり、南端では10mほどの崖となっている。
ちなみに、すぐそばに「城多目的研修集会施設」という建物があるが、この地の字が「城」というらしい。

城マップ

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