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大胡城  特集・赤城山南麓の城跡

特集, 赤城の史跡 2015.02.17(火)

大胡城址入り口駅から1kmの本格城跡
大胡城は平安、鎌倉の昔から活躍した大胡氏の居城。
現在のこる城址は、戦国時代に整備されたもので、天文年間(1532~1555)の築城とされる。また、江戸時代に入り初代の大胡藩主となった牧野康成の手による整備のあとも残る。

大胡氏の牛込移転

大胡氏は平治の乱や治承・寿永の乱にも参戦した歴史ある武将の一族で、戦国時代には、南関東を領有した関東管領家のひとつである扇谷上杉氏(※1 )の家臣となっていた。 大胡家の当主・助五郎重行は、上杉朝興に仕えており、故郷の大胡ではなく東京に居留していたようだが、そこに後北条氏が侵攻してくる。上杉朝興が北条氏綱に敗れて江戸城を失い、川越まで退却した前後(大永4年/1524年)に、後北条氏に従うようになり、日比谷と牛込に所領を持った様子。

一方そのころ、ふるさとの群馬県・大胡では、戦国時代後半にかけて東群馬の中心的存在になっていく由良氏らが、勢力を拡大中だった。 結局、大胡氏は東京の牛込を本拠地とするようになって、群馬の大胡は切り取られるにまかせたようだ。
 後北条氏のものとなった江戸城のほどちかく、牛込の所領に根付くことになった大胡氏は、大胡重行の子の勝行の代になり、弘治元年(1555)に後北条氏の許しを得て牛込氏に改姓し、また、飯田橋付近にあった赤城神社を新宿神楽坂の現在の位置に移設したと伝わる。

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大胡重行が東京に移った一方で、群馬に残った大胡氏の一族もあった。そのため軍記物では、大胡姓の将は、その後の上杉・武田・後北条らの戦乱に、たびたび登場する。また分家にあたる上泉家は、西群馬を拠点としていた長野氏に仕え、北条勢や武田勢との戦いに活躍することになる。

※1 扇谷上杉氏は関東管領の上杉の一族として南関東を治め、江戸城や川越城を拠点とした。後北条氏に攻められて敗走を重ね、やがて没落していった。

大胡城2

上杉 vs 後北条の最前線となる

大胡氏が去った後のこと。
大胡城を狙って、周辺の武将たちによる小競り合いが続いた。太田方面からは横瀬氏(後に由良氏と改名)、前橋方面からは厩橋長野(まやばしながの)氏、伊勢崎方面からは那波(なわ)氏らの勢力が進出して奪い合い、大胡城もたびたび城主を変えた。

戦国時代前半には、群馬の武将たちは、大きな勢力の枠組みとしては関東管領の山内上杉家や扇谷上杉家に従っていた。しかし両上杉家ともに内紛や謀反で力を失ってしまう。その隙をつくように、南から後北条氏が徐々に攻め上がり、領土を拡大してきた。江戸城を奪取(大永4/1524)し、さらに北へ北へと上杉領を侵食した。天文6年(1537年)には河越城を陥落させ、南関東を支配下に置いた。
 そこから8年後の天文14年(1545)9月のこと、上杉勢は北関東の勢力を結集して後北条氏に総反撃を開始すると、圧倒的な大勢で河越城を包囲した。また今川と武田もその動きに歩調をあわせ、それぞれ隣接する領に兵を進めたため、河越城は孤立無援の状態に。北条綱成は必死に籠城して半年を持ちこたえたが、陥落は時間の問題だった。天文15年(1546)4月のこと、深夜に突然、後北条の本隊があらわれて、上杉方の陣に突入した。大混乱となったところへ、北条綱成が城門から打って出て、上杉方は総崩れとなった。と、軍記物に詳しく語られる河越夜戦で、上杉は関東での影響力を損ない、後北条の優位が決定的になった。埼玉を舞台としていた上杉と北条の戦いは今度は群馬を舞台に戦われることに。
山内上杉氏は、藤岡市の平井城も失うと、ついに上野国を諦めて越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)のもとへと落ちのびていく。
そんななかで、群馬の武将たちは、あるものは上杉方に残り、あるものは後北条と通じ、という状況となった。

その後は、力を失った上杉にかわって、下剋上で越後を上杉から切り取った越後長尾家出身の長尾景虎(後の上杉謙信)が、後北条氏に反撃する戦いがはじまることに。
長尾景虎により奪回された沼田・前橋が上杉方の拠点となると、大胡城の一帯はまさに後北条勢との戦いの最前線となってとったりとられたり。終盤戦は武田も参戦し、勢力はめまぐるしく入れ替わった。
 大胡城の主として名が挙がるのは、地元・東群馬の勢力では伊勢崎の那波氏、太田の由良氏の家臣の益田氏、また大胡氏一族の上泉氏ら。大勢力では、上杉方の北条(きたじょう)氏の一族や、後北条の武将の山上氏などが入った。
文末に大胡城一帯の戦国時代後半の年表を添えるが、たいそうめまぐるしい。
大胡城3

後北条滅亡。天下統一と大胡藩の成立 初代藩主は部下思いと評判の牧野氏

天正18年(1590)、後北条が小田原で豊臣方に敗れて滅び、天下統一となる。徳川家が関東に国替えとなって入ってきた。大胡城は徳川家家臣の牧野康成が城主となり、大胡藩として立藩し、元和2年までの25年間、康成と子の忠成が大胡藩主として在城した。

牧野康成は長篠の戦でも活躍した徳川家の家臣で、のちに真田昌幸・幸村 (史実的には幸村の名は信繁)親子とも上田城で戦っている。
慶長5年(1600)の関が原の戦い。牧野康成・忠成の親子は、徳川秀忠の率いる中山道制圧の軍勢に参加した。秀忠の軍勢は、桐生の織物で軍旗をこしらえ中山道を西へと向かい、峠を越えて信濃の国へ。そこには西軍についた真田昌幸・幸村の上田城があった。真田親子は開城の説得に応じず、第二次上田合戦が始まった。

上田城に篭城する真田に対して、秀忠勢は周辺の田を刈って挑発し、城からおびき寄せる出す作戦をとった。城から攻め出てきた真田勢に、牧野配下の武将・贄掃部の一隊らが襲い掛かかった。城に逃げる真田勢を追って上田城大手門まで迫るが、そこで真田昌幸が準備万端待ち伏せしていた。手痛い反撃を受けたあげく、幸村率いる別働隊が秀忠本陣まで迫るという大失態。牧野康成は贄掃部を切腹させるよう命じられるが、自分の責任であるとして贄掃部をかばい通したという話が伝わる。
この失敗で一時謹慎となった牧野家だが、やがて許され大坂の陣などで活躍し、いわゆる栄転で長岡に国替えとなる。大胡藩・大胡城は前橋藩領に吸収となり、酒井氏時代には城代が置かれたが、寛延2年(1749年)酒井氏が姫路へ転封となった際に、廃城となった。
この廃城より300年を経た現在でも、堀や土塁などの構造がほとんど完全に保存されている。
大胡城本丸跡

大胡城の現地情報(前橋市河原浜町660番地1)

前橋市役所大胡支所の北側、県道16号から看板を目印に進むと、「大胡城跡」の石碑(写真有)がある。その脇、車1台分の細いトンネルを抜けると二の丸を利用した駐車場が広がる。二の丸からみた本丸は、空堀に囲まれ、土塁が盛られているため、かなり高く感じる。本丸は2段に分かれていたようで、その段差には石垣が残されている。ちなみに、本丸の北側には北城があったとされているが、現在は幼稚園の敷地となっている。

城マップ

戦国後期の大胡城の年表

1546(天文15) 伊勢崎の那波(なわ)氏と前橋の厩橋長野氏が連合し、太田の由良氏と抗争した。那波・長野が敗れて大胡城は由良氏の勢力圏となり、益田氏が城主となる。

1551(天文20) 後北条氏、山内上杉を攻めて一帯から追い出し、厩橋長野氏を従える。

1560(永禄3) 拡大を続けてきた後北条氏に対し、謙信が新潟・群馬の県境の山を越えて反撃の軍を起こす。攻め落とした厩橋城を拠点に、大胡城、女淵城、上山城を手に入れる。大胡城の益田氏は追われた模様。厩橋長野氏は降伏して上杉に従ったが、謀反の嫌疑をかけられ没落する。

1563(永禄6年) 前橋城は一旦、後北条・武田軍に攻められ落城した模様。すぐに上杉に取り返され、謙信家臣の北条高広(きたじょう)が入る。が、1567年に北条高広は後北条に寝返る。

1569(永禄12年) しばらく後北条に寝返っていた北条高広が越相同盟を経て上杉に戻る。高広は家督を息子の北条景広に継ぎ、大胡城に隠居する。

1574(天正2) 後北条の当主・氏政自ら大胡・前橋を攻める

1579(天正7) 御館の乱で、北条景広が戦死してしまう。息子を失った北条高広は後北条-上杉景虎の陣営を見限り、武田-上杉景勝の陣営につき、厩橋城に入る。このときの大胡城主は大胡高繁だが、この大胡氏は、北条氏(きたじょう)の一族と推定される。大胡にいるから大胡姓で呼ぶ、というような事情。

1582(天正10) 武田が滅ぶと群馬は織田信長家臣・滝川一益のものとなり、滝川一益が前橋城に入る。直後に本能寺の変。この機に乗じて後北条が群馬に侵攻し、前橋城の滝川氏を追い出す。厩橋城には再び北条氏が戻る。

1583(天正11) 北条氏が後北条氏と対立し、厩橋城は攻め落とされて後北条の直轄となり、大胡城には上山郷右衛門が入る。
大胡高繁は後北条に従うことで、引き続き城主の立場で残された様子。大胡高繁が大胡城主として三夜沢赤城神社に宛てた天正13年と17年の書状が残っている。
ちなみに上山郷右衛門(山上久忠)は、後北条家の家臣で信濃の望月氏がルーツらしく、前橋市の上山城の上山氏とは無関係の模様。

1590(天正18年) 小田原攻めで後北条は滅亡し、北条方についた群馬の諸将は城を追われた。厩橋、大胡はそれぞれ藩となり、厩橋藩には平岩親吉が、大胡藩には牧野康成が藩主に着任する。

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