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前橋城 特集・赤城山南麓の城跡

特集, 赤城の史跡 2015.02.13(金)

前橋城車橋門跡前橋城は、現在は群馬県庁や前橋市役所となっている、前橋市大手町の一帯にあった。
 戦国時代のには、このあたり一体の地名は、街道の橋のたもとに馬つなぎ場があったことに由来する「厩橋」で、藩は「厩橋藩(まやばしはん)」、城は「厩橋城(まやばしじょう)」だったが、江戸時代に入ってから酒井家第5代藩主の忠挙のときに、まるごと「前橋」「前橋藩」「前橋城」に改称された。
 この地に城が築かれたのは室町時代のこと。関東管領の山内上杉家に従っていた長野氏により、箕輪城の支城として作られた石倉城が厩橋城のルーツとされる。長野氏の一族は本流の箕輪長野氏、この厩橋城を拠点にした厩橋長野氏、そして長野一族の古くからの拠点である鷹留城の鷹留長野氏の3家の勢力で戦国時代を迎えた。
 厩橋長野氏は、上杉勢力の中では家老一族だった長尾氏である白井長尾氏や総社長尾氏ほどの権力はなかったが、上杉氏や長尾氏が謀反に内紛にと忙しい中で、次第に頭角を現し、本流の箕輪長野氏とともに西群馬の中心的存在に成長していった。
前橋公園・噴水

大勢力に直接支配された厩橋城

鎌倉時代には関東管領として関東に広大な支配圏を持った上杉氏だったが、戦国時代に入り自滅的に衰退していく。その一方で、新興勢力の後北条氏(※1)が力をつけ、南から上杉の領地を次第に奪っていた。その侵攻は天文20年(1551)にはついに厩橋城まで到達した。

上杉氏は群馬を追われたが、厩橋長野氏は後北条に服従し、この地に残ることを選んだ。

永禄3年(1560)、長尾景虎(のちに上杉謙信※2)が後北条討伐のため進軍。重要な拠点となる厩橋城を攻めて、長野氏を降伏させる。さらに景虎は、三夜沢赤城神社に必勝を祈願し、滝沢不動尊の右手を切り取ってお守りに携え、小田原へと攻め上っていった。

こうして一旦は謙信の勢力に戻った厩橋長野氏だったが、ほどなく謀反の嫌疑をかけられ没落してしまう。
上杉謙信も後北条氏も、城を攻略すると大概は元々の城主を服従させて、そこに残した。しかし、補給基地や前線基地として最重要の拠点となる厩橋城と沼田城には、直属の家臣を駐留させた。
厩橋長野氏に対するこの処遇は、群馬の諸氏の目にも、厩橋城を直接支配するための策略と映ったかもしれない。その後、厩橋城には上杉謙信の家臣の北条高広(ほうじょうではなく、きたじょう)が城主として入城した。

北条高広は、川中島合戦でも活躍がある重臣で、謙信の総代理としてこの地に駐留した。天正11年(1583)までの約20年にわたり、厩橋城を居城としたが、その間ずっと厩橋城が上杉方の城だったかというとそうではなく、上杉・武田・後北条の駆け引きの舞台となって、波乱に富んだ歴史を残した。

北条氏と厩橋城の趨勢は次のとおり。

1563年(永禄6) 北条高広、厩橋城の城主に任命される。
1567年(永禄10) 武田軍と後北条軍、謙信が滞在している厩橋城を攻め、城下町を焼く。
北条氏は謙信の期待を裏切って、由良氏らに同調して後北条サイドに寝返る。
1569年(永禄12) 北条氏、上杉方に戻る。(越相同盟が成立し、そのとき許されて帰参。群馬の後北条領は上杉に戻る)
1571年(元亀2) 越相同盟が崩壊、甲相同盟成立。厩橋は再び上杉・後北条の前線に
1572年(天正2) 後北条の当主・北条氏政が自ら出陣し大胡と厩橋を攻めて、一帯を黒土にしたとか。
1579年(天正7) 武田勝頼に寝返る。(御館の乱の影響)
1582年(天正10) 武田家が長篠の戦いで織田に敗れて滅亡する。織田の家臣・滝川一益が群馬を拝領し、厩橋城に入城する。直後に本能寺の変が起こる。滝川一益は、南から急進してきた後北条の大軍に神流川の戦いで敗れて群馬を追われ、清洲会議に遅刻する。このときは北条氏をはじめ、近隣の真田氏、由良氏ら群馬の武将は滝川方で参戦し、後北条の軍と戦ったが、みな合戦のあとは後北条からお咎めをうけることは無かった。北条氏高広も厩橋城主に返り咲く。
1583年(天正11) 後北条の沼田真田氏攻めに反発し、上杉陣営に寝返るが、後北条に攻められ降伏。北条氏は大胡城に移り、没落していく。厩橋城は後北条氏の直轄の城となり、後閑氏が城番として入る。
1585・1586年
(天正13、14)
後北条氏は厩橋城から沼田真田氏に対し軍を進める。加沢記によれば、1度目は鈴ヶ岳のふもとや昭和村の阿岨城を拠点に沼田を攻めたが敗退。2度目は当主の北条氏直も出陣し、5万の大軍で大胡から赤城神社に勝利を祈念して「五輪嶺の近辺に御本陣を」とあり、赤城山を越えての行軍だった模様。地元から参戦した阿久沢氏、由良氏の様子も描かれている。
※詳しくは次項の、「北条氏と赤城神社」で。
1590年(天正18) 小田原征伐。秀吉は小田原城への侵攻と同時に、群馬・埼玉の後北条方の諸城を攻略した。厩橋城は浅野長政率いる軍勢に囲まれて、降伏・開城した。後北条氏は滅び、翌年にかけて秀吉の天下統一が完成。戦国時代は豊臣と徳川の終盤戦に向かっていく。
後北条氏の去った厩橋城には、徳川家臣の家臣平岩親吉が初代の厩橋藩主として入り、その後移封により慶長6年(1601)に酒井重忠が藩主となって入城した。
※1 鎌倉時代の執権の北条氏に対し、戦国時代の小田原を拠点とする大名の北条氏を「後北条氏」や「小田原北条氏」と呼ぶ。
厩橋城の城主となった北条高広(きたじょうたかひろ)との混同を避けるため、記事中では一貫して、「きたじょう」は北条、「ほうじょう」は後北条とした。
※2 長尾景虎→上杉謙信 もともと下克上で上杉家から越後を奪った長尾家に生まれた景虎。景虎は後北条に追われて越後に逃れていた上杉憲政を擁して後北条を討伐し、群馬・埼玉を制して小田原まで攻め上る。この功績で上杉憲政から関東管領と上杉家督を譲られて、永禄4年(1561)上杉謙信と改める。

後北条氏と赤城神社

真田氏の視点から戦国時代後半をつづった「加沢記」によれば、北条軍の一行は大胡から赤城神社に参詣する。二ノ宮の神主は赤城山の山頂まで北条軍に随行して「御利運疑いなし」と励ました。北条氏直はこれに感謝し、神主に引出物を贈ったとある。
沼田を守る矢沢頼綱は、赤城山の陣中に文を送り「山中へ御出張まことにご苦労の至り」とからかい、北条氏直は「山中珍しく覚えるに付き、一両日鷹狩り。降参はお早めに」と余裕を見せてやり返したという。この戦いは、真田軍は上田を徳川に攻められている最中で、沼田に主力を出せない中、家臣の矢沢頼綱が寡兵で守り切った。

赤城神社・参道原文では「赤城へ参詣あり二ノ宮神主案内にて禅頂まで参り」となっている。この赤城が、現在の「二宮赤城神社」なのか、「三夜沢赤城神社」なのか、はっきりとはしない。「二ノ宮」は、上野国一ノ宮貫前神社に対する第二の神社、という呼び方であって、「二宮赤城神社」を指すとは限らない。

当時の状況を推測するに、どちらかといえば、「三夜沢赤城神社」だったのではないか、といったところ。
二宮赤城神社には、天正4年(1576)に後北条氏が社殿などを壊して宝物を奪い、後に大胡藩の初代藩主牧野忠成が再興した、とする話も伝わる。この時代の二宮赤城神社は、荒廃していたのかもしれない。
三夜沢赤城神社に伝わる書状からは、当時の赤城神社信仰の主流は三夜沢赤城神社だったと推定することはできる。永禄3年(1560)以降に、上杉、後北条、そして地元勢力の由良氏、北条氏(きたじょう)が、それぞれに「三夜沢赤城神社の神主の奈良原紀伊守」に寄進や保護を申し出ている様子がわかる。
両社は山宮・里宮の関係、または両方とも山頂に対する里宮として、一体の「上野国二宮・赤城神社」であり、両社の神主を「赤城神社神主・奈良原紀伊守」が務め、当時、神主が常駐したメインの社殿が三夜沢赤城神社だった、と解釈したらよいだろうか。

さて、話は逸れるが、後北条氏が本当に「天正4年(1576)に後北条氏が社殿などを壊して宝物を奪った」のかといえば、これもよくわからない。状況的には、参詣のエピソードや書状を見る限りは、戦国時代の後半には「赤城神社」は上杉・後北条双方に大切にされていた様子で、三夜沢赤城神社と一体の二宮赤城神社を特別に略奪する理由も見当たらない。
また時代的には、天正4年のこととなると、後北条方とは由良氏ら東群馬の諸氏のことであり、大切な地元の神様には手出しはしないだろう。この年の2月に由良氏が膳城方面を攻め、上杉勢力圏になっていた女淵城まで奪回したようだが、二宮赤城神社が略奪の対象となったとは考えにくい。
もう一方の上杉方は、厩橋城・大胡城の北条高広・景広の親子と、膳城の木戸氏で、彼らも赤城神社への信仰は篤い。

二宮赤城神社の荒廃が後北条方の仕業とすれば、年代的に近いところでは天正2年(1573)の前橋・大胡攻めもあるが、もうひとつ遡って天文20年(1551)に、厩橋城を攻めて山内上杉を群馬から追った時期にも本格的に侵攻している。そういえば、このあと弘治元年(1555)に、牛込に移住し北条家臣となっていた大胡氏が、赤城神社を飯田橋付近から現在の位置である神楽坂に移設している。・・・なんの根拠もないが、あれこれ関連性などを空想したくなるところ。

太平の世でも破壊と再生 江戸時代の前橋城

前橋城を囲む利根川と広瀬川は前橋城の守りの要であったが、また前橋城の最大の敵でもあった。利根川は、赤城山の土を流山に運んだ伝説があるくらいの名高い「暴れ川」で、前橋城もたびたび氾濫や洪水の被害を受けている。

前橋城の前身である石倉城は、天文3年(1534)に氾濫で本丸が崩壊してしまう。そこを長野氏が戦国にふさわしい堅牢な城に作り直したのが厩橋城だ。新潟から関東奪還の行軍を繰り返した上杉謙信は、ここを群馬での拠点として、群馬の東側や埼玉方面へ攻めていった。また信長から関東一円を賜った滝川一益が本拠に選んだことからも、この城の規模が相当のものだったことが伺われる。

江戸時代に入り、初代厩橋藩主の酒井重忠が3層の天守を造るなど大規模な改築がほどこされ、5代酒井忠挙のときに「前橋藩」に改称、城も「前橋城」となって城下の繁栄を見守った。

太平の世、絹取引で栄える城下だったが、利根川はたびたび氾濫を起こし、また城の周囲も侵食が進んでいよいよ本丸まで倒壊の危機に。ついに、明和4年(1767)には当時の藩主松平氏が維持は不可能と判断し、川越城に避難してしまった。当時は城の増改築はほとんど認可が下りず、また前橋藩の財政にも余裕がない。前橋の人々は城の再建と領主の帰還を望み、松平家に再三願い出ているが、長いこと実現しなかった。

それから100年後、時は幕末。国外からの脅威が迫る中、文久3年(1863)に前橋城の再築城の許可が出た。着工から3年の月日をかけ、砲台を備えた近代的で強靭な前橋城が完成した。しかしそのわずか半年後に、明治維新で徳川の世がおわる。廃藩置県により明治4年(1871)には本丸御殿を残して取り壊されてしまった。
その後、残された本丸御殿は県庁舎として利用されるが、老朽化にともない昭和3年(1928)に3階建て鉄筋コンクリートスクラッチタイル張りに建て替えられた。また天守は平成11年(1999)に33階建て鉄骨造で再建され、現在に至る。天守最上層の物見や御台所からの眺望はきわめて良好で、小田原勢や甲斐勢の動きを察知するには大変都合がよい。

厩橋城天守

城マップ

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